日本には上代文学を課題とする学会が複数あるのに対して、西洋の学会は「東アジア研究」といったより広い視野をとっています。トロント大学の学会のような小さい学会でもいくつかのパネル式発表会が同時に行われ、参加者は興味によって選択できます。

参加者の関心がかなり異なるわけで、詳細に目が向けられるのではありません。私たちのパネルの発表は15分づつありましたが、その後の討議は30分もありました。私の課題であった古代日本の武力的平定は、平和活動や第二次世界大戦の記憶などの他の発表とは関係ないように見えるでしょう。

しかし異なる分野の学者が討論できるように、西洋文学評論は一つの共通語を与えています。例えば、「歴史」は科学的に証明された事実と考察できる一方、語り手によって実証される「物語」としても考察できます。

『古事記』の場合、大和政権による日本の統一は遠い過去の服従しない神々の平定として記述されています。ヤマトタケルに対する命令は次の通りです。「東の方十あまり二つの道の荒ぶる神、またまつろはぬ人等を言向け和平せ」。人々の「まつろはぬ」心は自ら降伏するようであり、天皇に奉仕する政(まつりごと)に向けられます。このように古い事柄を語ることによって、権力者のイデオロギーが根拠づけられ、ここでは天皇の権力が固められます。

現代の私たちにとって、アメリカの南北戦争または第二次世界大戦などの書き直しは明らかです。これらの戦争の勉強や討論は、歴史の一つの「物語」となります。その物語の公共的な記憶は、自由、和合、平和などのより大きい主張(「大きな物語」、master narrative)に影響されています。私たちにも平和などの大きな物語だけに注目し、自分の誤りを見逃すことはあるでしょうか。私たちの歴史の物語はこれらの戦争によって残された人種的、政治的な傷を無視しているところはあるでしょうか。今回の学会はこういった質問に解決案はありませんでしたが、それぞれの課題を比較して問題の認識に及ぼす役割があれば幸いです。

京都府立大学同窓会から多大なるご協力を得てこの学会で論文を発表することができました。こころより感謝いたします。